記憶の屑籠

考えたこと買ったもの。いろいろ詰め込む雑記ブログ

アクティブラーニング(講談社現代新書)

アクティブラーニングを懐疑的に見つめる本。

最近流行っている言葉だが、学習形態としては大正時代からある。この本では、成城小学校と奈良女子高等師範学校附属小学校の取り組みが紹介されている。

どちらも理想的で、子どもの自主性を尊重している自由な校風である。しかし、欠点もある。意欲的ではない生徒は自主的に動くのが難しい。そこで先生がこれをしようというと、生徒の自主性を重んじていないということになってしまう。自主的に、意欲的に活動しているように見えても、それは大人の理想の押しつけで、結果的に自由という「型」に嵌めてしまっているということが興味深かった。自主性や自由教育の難しさを痛感させられる。

三章は戦後の教育であるが、今の状況とそっくりで驚く。中間層が薄く、上と下の格差の拡大や、新しい言葉に教師が困惑し、その結果「活動あって学びなし」な授業を行ってしまうところなどそっくりである。

四章は、私にとっては生まれる少し前で教科書などで学ぶこともなかった時代。なぜ自分の時にゆとり教育になったのかが分かる。生活科という文字を見て当時を思い出した。地域密着型の授業が楽しかった記憶がある。地域の工芸品を作っている所に訪問したり、神社、お店見学など。自分でテーマを決められるのが嬉しかった。全くの自由だと決めにくいが、範囲や例があっての中では決めやすかった。全くの自由にしないのは大正時代の反省だろうか。

四章後半は少し気になるところがあった。できない子にばかり視点がいっているのではないかと感じた。194頁の図表で、調べ学習への意欲と基礎学力との関係を示している。本書では、基礎学力が高い子ほど調べ学習に対する意欲も高いと書かれている。中学はその通りなのだが、小学校の「調べる学習の意欲」、「考え・意見を発表する意欲」に関しては、上位は中の上より5%以上も「あてはまる(意欲がある)」と答えた割合が低い。筆者はこれについて何も言及していない。上位の子どもたちはあまり調べ学習をしたり、意見を発表したいと思わないことを考察することは大事だと思う。私は所謂「浮きこぼれ」の生徒の影響で中の上より割合が減ったと思っている。浮きこぼれの子もできない子と同じように存在していると思うが、できる子だからと存在を無視しているように思えた。

五章。最初、アクティブラーニングは大学の話だった。私は現在大学生であるが、大学の授業でも積極的にアクティブラーニングをしようとしている。(させられている?)

学生として困るのは、ちょっと興味が出てきた分野の授業でそのようなことをされると非常に潜りにくいということだ。また、スマホを持っていないので、今スマホで調べてと言われるのも困る。話し合いでは、単位を埋めるために授業を取っている人と本気で学びたくて履修している人が同じ班にされてしまうとどちらにとっても充実した時間にはならないだろう。大学でのアクティブラーニングは上級年次の専門のゼミだけでいいと私は思っている。

大学でも小中高でも、「共通の知識」なしに話し合いはできない。"思考力・判断力・表現力を個人が独学で学び、高めるには限界がある。”本当にその通りだと思う。家庭環境の差がそのまま学力格差になるというのは今すでに問題視されているが、このまま方針を変えないとさらに格差は拡大するばかりである。

「共通の知識」があってもクラス内の関係・雰囲気、教師への忖度により自由な意見を持っても、発言は自由にできないという問題もある。多様な性格、意見を受け入れる土台作りが一番最初にやらなければいけないことだと感じた。